一人旅を始めて10年になる。仕事のストレスから逃げるように飛び出した最初の旅は、福島の高湯温泉だった。あの時の解放感が忘れられず、今では年に4〜5回、必ず一人で宿に泊まる時間を作っている。今年の春もすでに3軒、山あいの宿を予約した。
一人旅の宿選びは、家族旅行とはまったく違う基準で動かないといけない。今回は、私が10年かけて見つけてきた「春の山小屋・小宿」を3つ紹介したい。どの宿も派手さはないが、何度でも戻りたくなる静けさがある。
1軒目:長野県・木曽路の囲炉裏宿
最初に紹介したいのは、長野県木曽郡にある築120年の古民家宿。名前は伏せておくが、JR木曽福島駅から車で30分、地図にも載っていないような細道の先にある。1日2組限定で、夕食は囲炉裏を囲んで宿主と一緒に食べる形式だ。
初めて泊まった時、薪が爆ぜる音と、外の沢の音だけが部屋に響いていた。スマホの電波も弱く、半ば強制的にデジタルから離れさせられる。これが一人旅にはちょうど良い。夕食は山菜の天ぷらと岩魚の塩焼き、自家製の蕎麦という素朴な構成だが、これがどの高級旅館より満足感がある。
料金は1泊2食付きで12000円台。平日に行けば一人利用でも追加料金は発生しない。春は山菜の最盛期で、宿主が朝に山で採ってきたばかりのものが食卓に並ぶ。これだけは絶対に体験してほしい。
2軒目:新潟県・松之山温泉の湯治宿
2軒目は、新潟県十日町市にある日本三大薬湯のひとつ、松之山温泉の湯治宿。日本酒で有名な地域の山あいにある、創業140年の老舗だ。私は初めて泊まった時、湯あたりするほどしっかりした泉質に驚いた。
この宿の魅力は、湯治専用の連泊プランがあること。3泊で18000円という驚きの料金で、布団の上げ下げも自分で行う、まさに昔ながらの湯治スタイル。一人旅で「何もしない時間」を確保したい人には完璧だ。
春は雪解け直後で、宿の周りには福寿草やカタクリが咲く。朝風呂の前に宿の周りを散歩すると、雪の匂いと土の匂いが混ざった独特の空気がある。これは春以外には味わえない。私はこの季節の松之山に毎年通っている。
3軒目:群馬県・尾瀬の入り口の山宿
3軒目は群馬県の片品村、尾瀬国立公園の入り口にある山宿。標高1200メートル、5月でもまだ雪が残っていることがある。一人旅だと、この標高の高さが非日常感を一気に強めてくれる。
この宿のすごいところは、夕食の時間が決まっていないこと。「お腹が空いた時に声をかけてください」と女将に言われる自由度さがある。本を読んでいて夕食を忘れることもあるが、それでも怒られない。一人旅にとってこの自由度は本当にありがたい。
料金は1泊2食付きで9000円台。山宿らしく素朴だが、地元の野菜と川魚を使った料理は丁寧に作られている。夜になると満天の星が見える。スマホで写真を撮ろうとして、結局カメラに収まりきらず、目に焼き付けるしかなくなる。あの感覚は今でも忘れられない。
一人旅の宿を選ぶときの3つの基準
10年の経験から、私が一人旅の宿を選ぶ時に必ずチェックする基準が3つある。1つ目は「一人利用OKか」。意外と多くの宿が「2名以上から」と書いていて、電話で確認すると一人もOKだったりする。サイトの情報だけで判断しないこと。
2つ目は「夕食の形式」。バイキングは一人だと寂しさが際立つ。部屋食か、囲炉裏のような共同の場が落ち着く。3つ目は「館内のWiFi強度」。これは逆で、強すぎる宿は仕事を持ち込んでしまうので避ける。電波が弱いほうが、結果的に旅を楽しめる。
春に一人旅を勧めたい理由
夏や秋の観光シーズンと違い、春は宿が空いている。特に4月中旬から5月初旬の連休前は、ほぼどの宿でも希望日程が取れる。料金も繁忙期の半額以下というところも珍しくない。これは一人旅にとって最大のメリットだ。
春の山は、動物の気配が強い。新緑が日に日に濃くなっていく様子を1日中眺めているだけで、頭の中の余計な雑音が消えていく。仕事に迴われている人ほど、この時期に一人で山宿に泊まってほしいと心から思う。
予約のタイミングと連絡方法
紹介した3軒のうち、長野と群馬の宿はネット予約に対応していない。電話のみの受付だ。これが初めての人には少しハードルが高い。だが電話で話すからこそ、宿の人柄がわかり、当日のコミュニケーションもスムーズになる。私は最初の電話で30分以上話し込んだことが何度もある。
新潟の松之山の宿はネット予約に対応しているが、連泊プランは電話のみ。直前のキャンセルは電話で連絡すると、女将が次回に振り替えてくれることもある。こういう柔軟さが小宿の良さだと思う。
持っていくべきものと、置いていくもの
一人旅で持っていくべきものは、本と日記帳。スマホで動画を見ていたら、せっかくの宿の時間がもったいない。逆に置いていくべきものは、仕事のノートPCと、急ぎの返事を要する案件。これだけ気をつければ、一人旅は本当に頭をリセットしてくれる。
10年続けてきて言えるのは、一人旅は「贅沢」ではなく「必要経費」だということ。月に1度の自分メンテナンスとして、ぜひ春の山宿を選択肢に入れてほしい。
一人旅に向いている曜日と時間帯
意外と知られていないが、一人旅で宿を選ぶなら火曜・水曜のチェックインが一番良い。週末の喧騒が完全に過ぎ去り、宿の人にも余裕がある。週末だと宿主が忙しすぎて、ちょっとした会話のチャンスも失われる。これは10年間試し続けた末にたどり着いた結論だ。チェックイン時間は15時ぴったりがおすすめ。早すぎると部屋の掃除が終わっていないし、遅すぎると暗くなって周边散策ができない。
夕食は早めの18時にお願いしている。理由は、その後の自由時間が長く取れるから。19時半に食事を始めると、部屋に戻る頃には21時を過ぎていて、本を読む時間が減ってしまう。小さなことだが、こういう時間配分が一人旅の満足度を左右する。
持参するお酒の選び方
山宿では地酒が出ることが多いが、私は自分で1本だけ酒を持参するようにしている。理由は2つある。1つは宿の地酒では量が物足りないから。もう1つは、自分のお気に入りの酒を持ち込むことで、その夜が特別なものになるから。
最近は700ml以下の小瓶を選んでいる。重量を抑えつつ、十分な量が確保できる。日本酒なら冷蔵不要の純米酒、ウイスキーならハーフボトル。これだけで宿の夜が一段と豊かになる。地元の酒屋で旅先の地酒を1本買って持ち込むのもおすすめだ。
季節の境目を逃さない
春の一人旅で最大の楽しみは、季節の境目に立ち会えることだ。雪解けの瞬間、新緑が始まる瞬間、桜が散る瞬間。これらは数日のズレで完全に風景が変わってしまう。だからこそ、4月から5月初旬にかけての旅は、毎年違う風景を見られる。
私は2024年は4月10日に長野に入り、雪解けの真っ最中に立ち会えた。2025年は同じ4月10日に新潟に入ったが、その年は暖冬で雪はほとんど残っていなかった。同じ日付でも、年によって全く違う風景がある。これが春の旅の醍醐味だ。今年もまた、何が見られるか楽しみにしている。
10年続けてわかった「戻りたくなる宿」の共通点
10年間で泊まった宿は軽く100軒を超えるが、何度もリピートしてしまう宿には共通点がある。まず宿主との距離感がちょうど良いこと。話しかけてほしい時には話してくれて、放っておいてほしい時には放っておいてくれる。この絶妙な間合いは、マニュアル通りの大型旅館では絶対に味わえない。
もうひとつは、館内に余計な音がないこと。テレビの音、業務用冷蔵庫のモーター音、隣室のいびき。これらが少ない宿ほど、翌朝の目覚めが圧倒的に違う。今年泊まる予定の3軒も、この基準でリピート確定している宿ばかりだ。一人旅を始めようか迷っている人に、最後にひとつだけ伝えたい。最初の1泊は、必ず「不安より好奇心が勝つ場所」を選んでほしい。それが続けるための一番のコツだと思う。


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